河井継之助の基礎知識

河井継之助の生誕から終焉までの人物像と動向を紹介します。

河井継之助の基礎知識一覧

河井継之助の年譜
河井継之助の辿った人生を年譜で振り返ります。迷走する時代に、未来をしっかり見据えながら、果敢に行動を起こした人生でした。
河井継之助の誕生~幼少期
河井継之助は、文政10年1月1日、越後長岡藩の同心町で生まれました。越後長岡藩(現新潟県長岡市)は、石高7万4千石で、越後のほぼ中央に位置しています。
河井継之助の江戸遊学時代
河井継之助の生まれた長岡藩は、歴代の藩主が好学だったのもあり、非常に教育熱心な藩でした。河井継之助は、27歳の時に藩庁からようやく許可が出て、遊学の旅に出ます。
河井継之助の西国遊学時代
安政5年、継之助はまた遊学の旅に出ます。江戸に出た継之助は、備中松山藩の山田方谷(やまだ ほうこく)を訪ねるために、西国へ旅立ちます。
河井継之助の藩政改革
河井継之助は、慶応元年に郡奉行に就任し、その後は御番頭、町奉行、御年寄役を歴任し、慶応4年には家老上席となります。藩財政の立て直し、兵制改革、禄高改正と様々な藩政改革をおこないます。
上京建白~小千谷談判
大政奉還が行なわれると、継之助は藩主牧野忠訓と上京し、藩主名代として議定所へ出頭、建言書を提出します。鳥羽・伏見の戦い後、長岡に帰った継之助は家老上席・軍事総督に任ぜられます。越後の地に西軍が迫りつつある中、5月2日、小千谷の慈眼寺(じげんじ)で「小千谷談判」が行なわれました。
北越戊辰戦争と河井継之助の最期
小千谷談判決裂後、本格的な東軍と西軍(新政府軍)の衝突が始まります。長岡城が落城しますが、これを奪還。しかし、再度落城。このときの戦闘で継之助は負傷し、その傷がもとで死去します。
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