北越戊辰戦争と河井継之助の最期

小千谷談判決裂後、本格的な東軍と西軍(新政府軍)の衝突が始まります。

北越戊辰戦争の始まりです。

河井継之助率いる長岡藩軍は、兵力はおよそ1,300余名で、対する新政府軍は、北陸道先鋒総督府軍1,500名と東山道先鋒総督府軍2,500名で、参謀の黒田了介(黒田清隆)と山県狂介(山県有朋)が指揮していました。

数でいえば西軍が圧倒的に優位ですが、継之助は勝つ見込みがあったからこそ、開戦を決意したと考えられます。

理由は、新政府軍は結局寄せ集めにすぎず、主力の薩摩・長州の兵力に限りがあること、戊辰戦争の展開次第で、新政府軍に従軍している各藩は寝返る可能性が十分にあったこと、戦争を長引かせることができれば、雪国の特性を活かして、南国の兵を破ることができること、といったことによります。

朝日山争奪戦では、東軍側が勝利するなどしましたが、数で勝る新政府軍は、信濃川の対岸まで攻め入り、長岡城下に向かって砲撃しました。

そして、新政府軍は川霧を利用して強行渡河し、長岡城が落城しました。

継之助は、新政府軍が強行渡河した次の日に、新政府軍を攻撃する作戦を立てていたのですが、1日遅れてしまいました。


長岡城落城後、継之助をはじめとした長岡藩軍は、長岡城を奪還すべく、加茂(現新潟県加茂市)まで兵を引きます。

そこから、魔蛇が棲むといわれた八丁沖と呼ばれる沼地を渡り、長岡城奪還作戦を展開します。

この作戦で690余名の長岡藩兵は、新政府軍を敗走させ、長岡城の奪還に成功します。

しかし、この戦闘で継之助は、負傷してしまいます。

長岡城下の新町口で左膝を敵弾に打ち抜かれてしまいました。

継之助は、長岡藩兵の士気が下がるのを怖れて、傷のことは隠し、手当てもさせませんでした。

長岡城を奪取したものの、継之助は陣頭指揮ができる状態ではなかったので、長岡城は再度落城してしまいます。

長岡藩兵とその家族は、会津へ落ち延びることになりました。

落ち延びるルートは、越後の下田から会津の入叶津に抜ける八十里越。

この山道は、一里が八里に相当するという険しい道でした。

担架で運ばれた継之助は、この有名な句を詠んでいます。

「八十里 腰抜け武士の 越す峠」

継之助は、塩沢村に到着し、医師矢沢宗益方に投宿します。

そのまま逗留しますが、1868年8月16日、左膝の傷が悪化し、死去します。

享年42歳でした。

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