河井継之助の江戸遊学時代

河井継之助の生まれた長岡藩は、歴代の藩主が好学だったのもあり、非常に教育熱心な藩でした。

1808年に藩校崇徳館(そうとくかん)を開校して、藩士の教育をしていましたし、藩費や私費で江戸や大坂に遊学する藩士も多かったといいます。

河井継之助は、27歳の時に藩庁からようやく許可が出て、遊学の旅に出ます。
最初に大垣藩士の斎藤拙堂の門に入り、その後古賀茶渓の久敬舎に移り、同時に佐久間象山の門人となります。

河井継之助は、幼少の頃より読書好きで、読書の方法は、何でもかんでも読む多読ではなく、会心の本を何度も読む精読の方でした。
古賀茶渓の久敬舎では、その書庫で「李忠定公集」を見つけるや、寝食を忘れて大冊12巻を読み写したといいます。

また、継之助は議論に長けていたことも有名でした。
継之助と話をするときは、一瞬も気が抜けなかったそうで、主張は必ず通すという面もあったそうです。

この頃の長岡藩主は、10代牧野忠雅で、幕府の老中職にありました。
ペリーが来航した際は、阿部正弘とともに時局に当たった人物です。
新潟町が幕府に召し上げられてから、長岡藩は財政が逼迫しましたが、藩主牧野忠雅は有能な下級藩士を登用して藩政改革を行ないました。

継之助は、この藩主牧野忠雅に献言書を提出しています。
献言書の詳細な内容は不明ですが、かなり過激な内容だったそうです。
これに対して藩主忠雅は、怒るどころか、継之助を「用うべき人材」として注目したと言います。

この記事が参考になったと思ったら「いいね!」お願いいたします。

   






河井継之助紀行~蒼龍窟の足跡~ トップページ > 河井継之助の基礎知識 > 河井継之助の江戸遊学時代

Copyright © 2007 河井継之助紀行~蒼龍窟の足跡~. All rights reserved