河井継之助の藩政改革

河井継之助は、慶応元年に郡奉行に就任し、その後は御番頭、町奉行、御年寄役を歴任し、慶応4年には家老上席となります。

継之助が最初に目指したのは、藩財政の立て直しでした。

富国強兵のためには、藩財政の立て直しが急務だったのです。

継之助の腹心、村松忠治右衛門を勘定頭にして財政の立て直しにあたらせます。

そして、継之助はそれまでの行法を改革するとともに、信濃川の水害を防いだり、生産を増大させることを行なっています。

賄賂などもやめさせています。

町奉行も兼務することになった継之助は、町政の改革にも乗り出します。

産業振興策をとり、賭博や遊郭を廃止しました。

遊び好きだった継之助に対して、「河井河井(可愛い可愛い)と今朝までおもい 今は愛想も尽き(継)之助」という落書きもあったようです。

藩債を整理した上で、藩費の節約、徴税の改廃等をおこない、蓄財に努めた結果、剰余金として99,960両という残高になりました。


兵制改革については、藩兵をフランス兵制の三個大隊に組織し、訓練を行ないました。

各戸に1挺ずつミニエール銃を配備するなどして、藩兵の洋式整備にも力を入れました。

継之助は、フランスの兵制・兵器を研究して、長岡藩に活かしました。


そして、継之助は、禄高改正もおこなっています。

継之助が禄高改正の考えを持つに至ったのは、軍隊を洋式化した結果、これまでの身分と一体となった家禄がどうも不都合に感じられるようになったからです。

家老といえども、兵制や兵器が洋式化されていれば、昔のように多くの家来をかかる必要がなくなるからです。

しかし、これは徳川時代、ずっと続いてきた身分制度を、一変させることになります。

長岡という小藩が、このことを考え実行したと言うことは、驚くべき事といえます。

石高制の廃止までは行きませんでしたが、禄高を100石に平均化することに成功しました。

僕が、一番河井継之助に感動したのは、自分が家老になっても、自分の石高を昔の120石からまったく増やしていないことです。

この凛とした態度に、ただ感動するのです。

この記事が参考になったと思ったら「いいね!」お願いいたします。

   






河井継之助紀行~蒼龍窟の足跡~ トップページ > 河井継之助の基礎知識 > 河井継之助の藩政改革

Copyright © 2007 河井継之助紀行~蒼龍窟の足跡~. All rights reserved