上京建白~小千谷談判

慶応3年に大政奉還が行なわれると、継之助は藩主のいる江戸へ向かい、上洛を進言します。

藩主牧野忠訓と上京した継之助は、藩主名代として議定所へ出頭し、建言書を提出します。

建言書の内容は、公武の間に入って徳川氏を弁護し、政権を復すことこそ道義と説いたものです。

この後、鳥羽・伏見の戦いが始まり、長岡藩は大坂の玉津橋の警備を任ぜられています。

その後、継之助は江戸に帰り、藩邸の財産を処分して、兵器を買ったりしています。

そして、海路、長岡に帰ります。

慶応4年、継之助は家老上席・軍事総督に任ぜられます。


越後の地に西軍が迫りつつある中、5月2日、小千谷の慈眼寺(じげんじ)で「小千谷談判」が行なわれました。

小千谷談判は、長岡藩軍事総督・河井継之助と、東山道軍軍監・岩村精一郎との間で行なわれた会談です。

継之助は、長岡藩の立場を述べながら、会津藩との間の調停してもよい、と提案しましたが、岩村は長岡藩の挙動を疑い、会津に与するものと決めつけたため、話し合いは全くのすれ違いでした。

小千谷談判決裂後、長岡藩は、越後5藩とともに奥羽列藩同盟に加わり、奥羽越列藩同盟が結成されました。

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