河井継之助の年譜

河井継之助の辿った人生を年譜で振り返ります。
迷走する時代に、未来をしっかり見据えながら、果敢に行動を起こした人生でした。

文政10(1827年):
 ●1月、長岡城下に誕生する。

天保13(1842年):
 ●元服して「秋義」と名乗る。

天保14(1843年)
 ●鶏を割いて、王陽明をまつり、立志を誓う。

嘉永3(1850年)
 ●「すが」と婚儀。

嘉永6 (1853年):
 ●江戸遊学。はじめに斎藤拙堂の門に入り、後に古賀茶渓の久敬舎に移る。

安政元 (1854年):
 ●新知三十石にて、御目付格、評定方となる。

安政4 (1857年):
 ●家督相続。この年に外様吟味役となる。

安政5 (1858年):
 ●12月、長岡を発ち、江戸に向かう。

安政6 (1859年):
 ●1月、再び久敬舍に入塾するが、6月に退塾し、西国遊学。
 ●7月、備中松山藩の山田方谷の門下となる。10月、長崎へ。

万延元 (1860年):
 ●夏に長岡藩に帰る。

文久2 (1862年):
 ●8月、長岡藩主牧野忠恭が京都所司代となったとき、献言書を提出。

元治元 (1864年):
 ●御用人勤向公用人兼帯となり江戸詰となる。

慶応元 (1865年):
 ●10月、郡奉行となる。

慶応2 (1866年):
 ●11月、御番頭格兼町奉行となる。

慶応3 (1867年):
 ●10月、大政奉還、王政復古の大号令。
 ●御年寄役になり、12月、長岡藩主牧野忠訓と大坂に上る。
 ●この時藩主忠訓公の献言書を朝廷に呈す。大坂にいる間、閣老に拝謁して献言する。

慶応4 (1868年):
 ●2月、長岡に帰る。4月、長岡藩家老になり、長岡藩軍事総督となる。
 ●5月、西軍軍監岩村精一郎と慈眼寺にて小千谷談判。
 ●談判決裂により藩論を統一し、参戦を決議。
 ●榎峠の戦い、朝日山合戦。
 ●奥羽越列藩同盟成立、連合軍総督。
 ●5月19日、長岡城落城。
 ●7月24日、八丁沖からの奇襲攻撃により長岡城を奪還。
 ●翌25日、新町口の戦いで銃弾を受ける。
 ●29日、再び長岡城が落ち、栃尾に向かう。
 ●8月2日、栃尾を発ち、八十里峠を越える。5日、只見に到着。
 ●12日、会津若松に向け、出発。夕刻に塩沢村に到着し、医師矢沢宗益方に投宿。
 ●そのまま逗留するが、16日、傷が悪化し、死去。享年42。

この記事が参考になったと思ったら「いいね!」お願いいたします。

   






河井継之助紀行~蒼龍窟の足跡~ トップページ > 河井継之助の基礎知識 > 河井継之助の年譜

Copyright © 2007 河井継之助紀行~蒼龍窟の足跡~. All rights reserved