河井継之助の西国遊学時代

河井継之助は、江戸遊学を終え、安政元年に長岡藩に帰藩します。

評定方随役に任ぜられての帰藩でしたが、国家老の山本勘右衛門らにその就職を拒まれます。
理由は、継之助の任命について国家老に何の相談もなく、若輩が重職に任命されるはずがない、というものでした。

結局、継之助は任務を与えられず、1~2ヵ月ほどで辞職しますが、その際、藩主に改革書を提出し、藩内に継之助の心意気が知れ渡ることとなります。

その後、安政2年に藩主の養嗣子である忠恭(ただゆき)が初めて入部する際、御前にて経史の講義を行なう「御聴覧」に継之助が選ばれましたが、継之助はこれを断っています。
藩士の名誉とされた御聴覧を断ったのは、「講釈をするために学問をしているのではない」という継之助の考えによるものでした。
継之助らしいですよね。

御聴覧を断り、叱りを受けた継之助は、しばらく不遇な時代を過ごします。
読書や猟などをしていたそうです。
この頃、「武士の家を弓馬の家というが、今後は砲艦の家といった方がよかろう。」と次の時代を見据えたことを人に語っています。

安政4年、継之助の父が隠居したため、継之助は河井家の家督を継ぎます。

安政5年、継之助はまた遊学の旅に出ます。
12月28日に出立し、雪の碓氷峠を越え、江戸に出ます。
この雪深い時期に躊躇せずに峠を越えていくという行動力は、見習うべき点ですね。

安政6年6月、江戸から備中松山藩の山田方谷(やまだ ほうこく)を訪ねるために、西国へ旅立ちます。

継之助が訪ねた山田方谷とは、備中松山藩(現岡山県高梁市)で藩務を執り、赤字にあえいでいた松山藩の財政を立て直した人物です。

山田方谷の藩政改革は、陽明学をその中心にすえて、文武奨励、産業振興、負債整理、紙幣刷新、士民撫育、上下節約等を行ないました。

この継之助の西国遊学の際に書かれた旅日記が有名な「塵壺(ちりつぼ)」です。

各地の民情視察や、山田方谷のもとで学習した記録、四国・九州を巡った紀行文といった中身になっています。

山田方谷は、最初は継之助の入門を断ったが、「先生の作用を学ばんと欲する者、区々経を質し、文を問わんとするにはあらず」と継之助が言ったため、許可されました。

後、山田方谷の留守中に、長崎に滞在し、外国に関する知識を得ました。
義兄の梛野嘉兵衛に宛てた手紙の中で、「天下の形勢は遅かれ早かれ大変動する。攘夷などと唱えるものは愚昧で、隣国との交際は大切にしなければならない。長岡藩は小藩だが、藩政をよく治めて実力を養うことが大事だ。」と述べています。

継之助は備中松山では、自炊生活をしながら、山田方谷から藩政改革などの実学を学びました。
継之助にとっては、ここでの生活は大変充実したものでした。

万延元年、継之助は山田方谷のもとを去ります。

方谷に対して、継之助は正座をして幾度も頭を下げ、別れを告げたといわれます。

この記事が参考になったと思ったら「いいね!」お願いいたします。

   






河井継之助紀行~蒼龍窟の足跡~ トップページ > 河井継之助の基礎知識 > 河井継之助の西国遊学時代

Copyright © 2007 河井継之助紀行~蒼龍窟の足跡~. All rights reserved